仕事が進まない人のブログ

「かつて仕事が進まなかった人のブログ」になることを目指します

記憶のあいまいさ

意識下ではすべきと思っていることをやろうと思っていても、いわゆる潜在意識?がじゃまをしているのか何なのかよくわからないが、とにかくやるべきことが始められない。あるいは、仕事をしていないこと自体に気づかず、気がついたら時間が経っていてもう夜遅くなっている。そんな毎日が繰り返されると、だんだん生きるのが辛くなってくる。そうなると、明日こそは、次こそは・・・という意識が芽生えてくる。しかし、やはり同じことが繰り返される。

 

こうなると、だんだん自分の記憶力を疑いたくなってきます。あのときの後悔や反省はなんだったのか。それをすぐに忘れてしまうのか。

人間は、生きていて感覚として入ってくることを事細かにすべて覚えておくことはおろか、「2日前に」何を食べたかすらもはっきりとは思い出せません。たとえ自分の発言であっても、自分が何を言ったのか、「普通は」「一字一句」覚えてはいません。

では、どこまで覚えていられるのが正常といえるのでしょうか。昨日の食事はみんな覚えているものだろうか。親や配偶者に作ってもらった食事だと自分で選ばずただ食べるだけだから忘れてしまうけれど、自分で選んだメニューや自分で作った食事なら1週間前でも覚えていられるのか。

自分の発言なら、一字一句とは言わなくても内容についてはほとんど覚えていられるものなのだろうか。「記憶にない」という答弁はどこまで許されるものなのだろうか。自分の現在の都合に応じて、記憶力は変わるのだろうか、あるいは、都合のいい記憶に改竄するのだろうか。

 

さて、こんなあいまいな記憶という装置に頼るのはやめて、外部記憶に頼りましょう、というアイデアがあります。

口約束ではなく書面を作る、単なる暗記ではなくメモを取る、常に頭に置いておきたいことは張り紙をする、といったことです。

これは効果を発揮します。しかし、完全ではありません。

メモを取ることを忘れたり、メモが不完全であったり、メモを後で見返さなかったりすれば失敗です。張り紙も、最初はともかく、見なくなってしまえばおしまいです。

これらは注意すれば直るでしょうか? 注意力の高い人にとっては直るので、こういった対策は喧伝され、こういうことすらしない人は怠け者だと言われるのです。しかし、こういう対策が功を奏さない人もいます。「メモを取る」「メモを見る」という張り紙をして、張り紙を見なくならないように、見なくならないよう注意する張り紙をして、それも見なくなりそうだったらまたメモを取るのでしょうか・・・? 家の中が張り紙だらけになるし、そもそも賃貸だと張り紙を貼れるところには限りがあるのではないでしょうか。

他の人に協力をお願いするというのは最も効果的です。もちろん、人間関係や立場には気をつける必要がありますし、お願いするにも限度があります。

スマートフォンやPCを良く見る人にはカレンダーやアラーム系のアプリも有効です。うまく習慣化することができればなんとかなるでしょう。

他にも、思いつく対策や見たことのある対策には次のようなものがあります。

  • 習慣化する
  • 食事に気をつける
  • 十分な睡眠をとる
  • 適度な運動をする
  • 記憶力についての訓練をする
  • 記憶力が必要な何か(資格取得や仕事)をする
  • 病院で相談する
  • 精神療法的対策(瞑想、認知行動療法、マインドフルネスなど)
  • 有効そうなサプリメントをとる
  • 記憶力不足で生じている問題を他の方法で解決する

たぶん他にもいろいろあるのでしょうが、少なくとも私はどれもそれなりにやって、解決したこともありますが、今のところそれほどうまくいっていません・・・。

意思決定と行動

前回はわざわざ仕事をやる利益と不利益を分析しようと試みたものの、このような判断が意識下で行われることはほとんどありません。

Wikipediaの「意思決定」の項目には次のような研究結果が書かれています。

意思決定 - Wikipedia

指を動かそうとするとき、人体の中で、

  • 「自らの意志で指を動かそうと思う」
  • 運動の指令信号を発する」
  • 「実際に指が動く」

の3つの物事が生じる順番を観測したところ、

  1. 運動の指令信号を発する」
  2. 「自らの意志で指を動かそうと思う」
  3. 「実際に指が動く」

の順番になっていたということです。

つまり、2番の「動かそうと思う」というのはある種の錯覚で、すでに脳内で意思決定が終わったものを認識したときに、これから指を動かすという決定を単に受け取るだけでなく、自分で指を動かすと今決めたように認識するということになります。

人間には魂のようなものがあって、1番の脳の信号を発する前に意思決定に影響を与えているとすれば、魂は観測できないから、この順番はそれほど驚くに値しません。しかし、そうでないとするなら、我々が意識と呼んでいるものは、実は何も決めておらず、人生とはまるで主人公の行動を自分が決めているかのように錯覚するすごい映画を見ているようなものだ、という解釈が成り立ちます。

 

しかし我々が普段そんなことを考えないのは、ほとんどの場合、意識していることと実際の行動に整合性があるからです。つまり、脳内が下した判断と意識が下す判断がほとんどいつも同じになるからです(意識も脳内にありますが、ここでは、「意識」といっているのは脳内で意識を司る特定の部分、ということにします)。

逆に、脳内の判断と意識の判断が乖離してくると、意識のほうはやりたいと思っているはずのことができずに苦しむことになるのではないでしょうか。

仕事をやる利益と不利益の話をすれば、意識のほうでは外から入った知識や他人から言われたことが影響し、やる利益の方がはるかに上回っていると感じていて、やる、と判断したはずなのに、脳内のほうでは外からの情報の影響が小さく、その分やる不利益のほうが上回ってしまって行動に結びつかない、ということになるのではないでしょうか。

この場合、もともとの流れから言うと、自分はその時は仕事をしないという選択を自分でしたように認識します。しかし、後から考えると、なぜそのような選択をしたのかわからなくなって苦しむわけです。

それはわからなくて当然です。脳内の電気信号の流れがどうなっていて、その結果どういう意思決定につながったのか、現代の科学で観測して実証することは不可能です。

 

そうすると、意識下ではすべきと思っている仕事を始めるには、脳内の判断を意識の判断に近づけていくように持っていくしかありません。言うのは簡単ですが、原理がわからない以上、実現は困難です。

ぱっと思い付くのは、

  • 習慣になるまで我慢する
  • 入ってくる情報を意識的に偏らせる
  • 脳内に影響を与える薬を飲む

くらいです。

一つ目の習慣にする、というのは対策の王道の一つです。これについてはまた機会があったら書きたいと思います。

二つ目は、要は自分で自分に洗脳を施すか、他人に洗脳してもらうか、というようなことです。意識下だけでなく、脳内の判断を強制的に望ましい方向へ向かわせるためには、意識下では過剰なまでの情報を入れる必要がありそうです。これはこれでリスキーです。洗脳の結果、望ましい方向に向かうかどうかの保証はありません。

三つ目は物理的手段であり、実行は最も簡単です。しかし、脳内の判断が望ましい方向に向かうかどうかはまったくわかりません。医師が処方する薬や、リスクの少ないサプリメントを指示通り服用する分には効果があるかもしれません。薬が効果を示す機序がはっきりしていなくても、一応、統計的に効果があるかもしれないことがわかっているからです。これは、試してみないとわかりません。

 

私としては、世界には神あるいは自由意志を示す魂があって、高潔な魂はそれだけ善い意思決定をする、というようなことを信じられるようになれたらなあという願望を持っているところです。

 

 

なぜ仕事にとりかかれないのか

やる気が出ない、だから仕事にとりかかれない。

 

仕事にとりかかれない理由をやる気に求めるとハマってしまいます。

自然にやる気が出てくるということはまずありません。普通は、仕事をしているうちにやる気が出てくるからです。

身体的疲労がたまっていてやる気が出ないのであれば、状況的に可能なら休息したほうがよいでしょうし、そうでなくても体操する、目薬をさす、何か食べる、といった改善策もあります。

やる気が出ない原因が自分以外にある場合、例えば環境が悪いなら環境を整えるとかやりようはありますが、他人が関わる場合はなかなか難しいです。

しかし、ただなんとなく精神的な問題でやる気が出ないと言い出すと、さらに深刻になります。

いわゆる「やる気が出ない」という言い方をするときは、やることによる利益と不利益が拮抗しているジレンマの状態で、次にとる行動を決定できないような状態にあります。

またしても、1ヶ月後締切の修士論文の例を出して考えてみます。なお、修士の研究内容が面白いとかつまらないとかでやる気が出るかどうかの話は抜きにします。

やることによる利益:

  • 大学院を修了し、就職できる可能性が高くなる
  • 将来の生活が楽になる可能性が高くなる
  • 将来、自分のやりたいことをやれる可能性が高くなる
  • 精神的安定が得られる
  • やったことを関係者や他人に賞賛される可能性がある
  • やらなかったことを関係者や他人に批判されなくなる

やることによる不利益:

  • 精神的・身体的労力がかかる(どのくらい?
  • 、他にやりたいことはできない
  • 困難に取り組む必要がある
  • やった結果、どうなるのか予測ができず不安である(例えば、指導教員に叱られるかもしれないし、何度も何度も訂正を命じられて徹夜をすることになるかもしれない)

やらないことによる利益:

  • 、(他にやりたいことがあれば)やりたいことができる
  • 、精神的・身体的に楽である
  • やらないことによる結果の予測が容易であり、その分の不安はなくなる

やらないことによる不利益:

  • やらなかった分を後で取り返す場合、時間的にさらに大変になる
  • やらないことを関係者や他人に批判される可能性がある
  • 大学院を修了し、就職できる可能性が低くなる
  • 将来の生活が厳しくなる可能性が高くなる
  • 将来、自分のやりたいことをやれる可能性が低くなる
  • 後で、やらなかったことを後悔する

これらの項目は、人によっては当てはまらないものもありますし、他にもあるかもしれません。とりあえず適当に思い付くものを挙げてみました。

実際のところ、やることによる利益とやらないことによる不利益、それから、やることによる不利益とやらないことによる利益は、ほとんど表裏一体です。しかし、そうでもないものもありますので書いてみました。

 

さて、これらを見て、今まで無意識に考えていた「やらないことによる不利益」が実は大きいものであることに気付いてやる気を出し始めるでしょうか?

やる気が出ないと言っているのが子どもであれば、経験が少ないので親や先生が指導することもできるでしょう。しかし、成人になるとそうもいきません。たぶん、これらのことはそれほど無意識ではなく、やる気が出ないときには常に頭に巡っていることでしょう。

そしてその結果、やることによる利益より、やらないことによる利益が頭の中でわずかに上回ったことになってしまうのです。

 

まず問題なのは、利益や不利益の見積もりが非常に難しいことです。

いくつかの項目には「可能性が高くなる」とか、「どのくらい?」という表記がありますが、要するに、程度によって判断が変わってくるのです。

必修の試験時間の真っ最中のように、今やらなければ確実に留年になるという状況で、試験問題に全然太刀打ちできないという悲惨な状態でなければ、まず解答用紙に答えを書くでしょう。

しかし、修士論文の締切は1ヶ月後ですから、今やらなくても後で書けばなんとかなるかもしれません。もちろん無事に修了できる可能性はその分下がりますし、後で大変になることも目に見えてはいます。しかし、それがどの程度なのか見積もることは難しいです。

難しいので、人は他の人の経験談を参考にします。しかし、それで心動かされるかといえば、そうでもありません。結局自分の経験や、基本的なスタンス(悲観的か、楽観的か)といったことの影響のほうが大きくなります。なんといっても、他人の経験はその人の場合の話であり、自分にそのまま当てはまるわけではありません。あくまでも、参考にしかならないのです。

 

次に、「」なのか「将来」なのかという要素も重要です。今の利益というのはほぼ確実なのに対して、将来の利益は保証されておらず、確率的に割り引かれてしまいます。極端な話、明日突然災害に遭ったりするかもしれません。そして、それは定量的には計算できません。

あるキャンペーンに今日申し込むと1万円もらえるが、なぜか、1年後に申し込むと10万円もらえると予告されている。さて、どうするか。

1年後に事故に遭って生きていないということは、まあないだろうし、1年後にハイパーインフレが起こって円の価値が暴落するということもまあないだろう。しかし、この企業がその1年後の予告を守るかどうかはわからない。それでも、10万円なら待ってもいいか・・・。もしこれが、1年後に10001円なら待たないだろう。じゃあ、いくらまでなら待てるのか・・・?

結局、企業の信頼性とか、この情報がどれだけの人数に知らされているのかとか、さまざまなパラメータが絡んでくるために判断は困難です。利益が金銭という数値で表されていてもこれですから、将来の生活の安定などといった曖昧な利益ではなお難しいことになります。

さらに、状況がまったく同じであっても、将来の利益に対する割引率が人によって異なります。がまんしても予想したより低い利益しか得られなかった経験が積み重なると、当然、割引率は高くなっていきます。ADHDなどの精神的障害の影響も無視できません。「これを頑張ったから嬉しいことがあった」「これをやらなかったから後で困った」という経験の学習に問題があって身についていなければ、それだけ不利になります。

 

最後に、その人のそのときの判断力が影響してきます。同じ条件でもそれぞれの人は総合的に異なる判断を下し、唯一の正解というものはなく、ただ傾向があるだけです。うつ病のような状態であれば判断力が低下している上にそもそも意思決定が行動に結びつきにくくなります。

 

現状、この分析的なアプローチは情報が不完全であるがゆえに効果はかなり限定的です。こういったことをほとんど考えたことがない方であれば、一度整理してみるといいと思います。しかし、「やる気が出ない」と悩んでいるような人は、たぶん、こういうことはすでにある程度わかっているのではないかと思います。

 

そこで、人は「やる気が出ない」ことについて考えるのをいったん止め、とりあえず何か仕事にとりかかろうとするのです。

さて、ここで堂々巡りになってしまいました。次は何について考えましょうか・・・

作業を小分けにすることの難しさ

あなたが大学院生で、1ヶ月後に修士論文の締切がある。書き上げて審査に通らなければ、留年となり就職もできない。したがって修士論文を書くことによる報酬は十分にあるはずである。そして、一応ではあるが、修士論文を書くための実験結果はある程度出ているとする。それなのに、書き始められず先延ばししてしまう。

そういうときに有効な対処法として、「作業を小分けにする」があります。

修士論文は大きめのタスクですが、そこまででなくても、完成させるのに数日以上かかるようなタスクは、それを考えただけでも嫌になります。そこで、タスクを小分けにすることで、短い時間で小さいタスクの達成を積み重ねることを目指すわけです。

まず間違いなく、何も計画をせずに大きなタスクを達成するのと、小さいタスクに小分けしてからそれぞれのタスクをこなしていくのとでは、後者の方が簡単です。だからこの対処法が言われるわけです。

しかし、それは単にタスク達成のための方法論を述べているに過ぎず、「仕事にとりかかれない」という人に対しては必ずしも有効ではありません。

では、試しに修士論文を書くというタスクを小分けする過程を実況してみましょう。

 

1ヶ月後に修論提出を控えているものの、なかなか書き始められない。そこで、まずは何をやらなければいけないか、整理することにした。

修士論文のフォーマットは決まっていて、それはもう手に入っている。まずはそれをもとに自分の名前を書いて、目次を作る。序論とか結論といった要素を埋める。

次に、どこから書くかを考える。書くべきことが決まっている提案方法の章から手をつけることにして、提案方法の章に書くことを考える。どういう手法を使うのか、なぜその手法を採用するのか、具体的な説明に必要な要素は何か、など・・・。

このあたりで、だんだんうんざりしてくる。提案方法の章で書かなければいけないことはたくさんあるのに、まだ章立ての1つを埋めたに過ぎない。これをあと4~5回繰り返しても、まだ論文の目次が埋まるだけである。

そこで、全体の計画を先に立てるのはあきらめて、提案方法を書き始めようとする。しかし、そうすると、結局修士論文を書くという仕事がものすごく困難な仕事に見えてきて、とても完成させられそうな気がしなくなってくる・・・。

では、提案方法の章を書くということをもっと小分けすればいいのではないか。その章の最初の節には、手法の概要とその手法を採用する妥当性を書くことにする。手法の概要を書くには、まずその手法の名前を挙げる。名前を書くには、例えば「この問題を解決するために、この論文では深層学習を用いる。」とでも書くか。いや何か変だ。こんな書き方をした論文はあまり見たことがない。もっとまともな書き方があるはずだ。そう思って今まで参考にした文献や論文の書き方についてのウェブサイトを見始める。見ているうちに、書き始めていない自分がだんだん不安になってくる。

やはり、最初の文を書くというタスクはまだ自分には大きすぎるのではないか。そう思って、このタスクをさらに小分けにすることにする。最初の文を書くには、少なくとも主語(主題)と動詞を考える必要がある。そして、主語を書くためには、書く単語を決めて、それをWordに打ち込むために必要なキーボード操作を行う必要がある。まず、Kというキーを右手の中指で押して離し、日本語入力モードであることを確認してから、次にOというキーを・・・

 

この学生は、仕事にとりかかることに悩んでいるにしては、かなり有望です。なぜなら、途中で横道に逸れていないからです。それに、まだ1文字も書き始めていないにせよ、この学生が実は仕事をすでに始めている、と多くの人は評価するでしょう。たぶん、仕事にとりかかれないことに悩んでいる人の多くは、この過程で挫折してしまうと思います。

作業を小分けにするというのは、つまり仕事の計画を立てることであって、計画を立てるというのはそもそも仕事の一部なのです。つまり、仕事にとりかかれないのであればまずは作業を小分けにして始めよう、という対処法は、「作業を小分けにする」というのが仕事の一部ではないと騙そうとしているのに過ぎません。

それでは、「作業を小分けにする」というタスクを小分けにすればいいのでは?

確かに、修士論文という大きなタスクを小分けにするのは、それ自体が大きなタスクであり、場合によっては数日かけてもおかしくありません。だから小分けにすると。

この戦略が上手くいかないのは、ちょっと考えればすぐわかると思います。まず大前提として、「作業を小分けにする」という技術を習得している必要があります。これはそれほど単純ではありません。少なくとも、Kと書かれたキーを打つ・・・などといった0.2秒で終わるタスクを書き下す必要はないだろうが、ではどこまで細かくすればいいのか、ということを学ぶ必要があります。

その技術を習得したとしても、次のように思ってしまったら? 「作業を小分けにするタスク」を小分けにするタスクが大きすぎる。これも小分けする必要があると・・・。

屁理屈みたいになってきましたが、実際のところ、「『作業を小分けにするタスク』を小分けにするタスク」を小分けにするタスクは、「作業を小分けにするタスク」を小分けにするタスクとやることは変わりません。小分けにするタスク自体の負荷が小さくなるように習熟する必要があるわけです。

そこで、タスク管理の技術を学び始めるわけです。タスク管理の技術を学ぶこと自体は、普通は仕事の一部とみなされません。少なくとも本人がタスク管理の技術を学ぶことを仕事と思っていなければ、とりかかれる可能性が出てきます。ここにようやく光明が見出されるわけです。

 

仕事にとりかかるための最も効果的な方法は、仕事にとりかかること?

あなたがこの記事を見ているということは、ひょっとしたら今、一人でやらなければいけない締切のある仕事を抱えているのかもしれません。そして、そんなことは今日が初めてではないでしょう。

そろそろ手を付けないとまずいと思いつつ、なかなか仕事にとりかかれない。やる気がでない。そんなときにネットサーフィンをしていると、しばしばこういった記事にひっかかります。

実際のところ、仕事にとりかかれない状況は人によって様々です。だから、様々な対処法が書かれていて、少しでもなんとかしようと何か対処法を始めるものです。

そして、その中の究極の対処法として、「とりあえず少しでもいいから仕事にとりかかる」というものがあるのです。

すでにPCを起動しているとしたら、とりあえずWordかエディタを起動し、何か文字を打てと。あるいは線を描けと。そういうことです。

このあまりにもバカバカしい対処法は、経験的にはそれなりにうまくいくとわかっているだけに、説明に苦慮します。

精神的な理由で何かをやりたくてもできないと悩んでいる人に対して、とりあえず怖くてもやってみよう、というアドバイスをするのはまだ理解できます。しかし、仕事にとりかかれないのは、その仕事をやりたくないからなのです。やる気がないけどやらなければいけない仕事にとりかかれないのに、その解決法が仕事にとりかかれ、というのは、何も言っていないのに等しいです。

なぜこの解決法がさも効果のある方法のように喧伝されるのか、それは、あるとき偶然ちょっとだけやる気になってやってみたら、気がついたらそれなりに仕事が進んでいた、という経験則を持っている人が多いからでしょう。それはおそらく事実です。

そして、その経験則を身をもって知っているからこそ、やる気のない仕事に対してやる気が出て来る可能性が開けるのです。やる気がないというのは、やってもそれなりの報酬が得られる見込みが薄い、あるいは報酬が得られるのが遅いということに直結しています。この経験則を身をもって知っている人は、その分だけ得られる報酬を高く見積もれるので、仕事にとりかかれる可能性が上がるわけです。

「仕事にとりかかるためには、仕事にとりかかれ」というアドバイスをする人は、この経験則をなんとか伝えようとしているだけです。しかし、悩んでいる本人にしてみれば、たとえ事実がそうだったとしても、その科学的知識によって、脳内の報酬回路がいきなり切り替わるわけではありません。

そこで、対処法としては搦め手が必要になるわけです。直接その仕事を始めるわけではなく、他のことをやる、というのが基本となります。

次の記事では、よくある対処法の「作業を小分けにする」について書きます。

はじめに

皆さんこんにちは。
このブログでは、やらなければいけないことがあるのになかなか手を付けられない、あるいは進まないという、人生におけるよくある問題について書きます。
今まで長い間、いろいろ考えたり対策を立て、堂々巡りや試行錯誤を繰り返し、さらにはADHDの診断を受けるも、状況は改善していません。
書き方が少し悲観的、あるいはネガティブに見えるかもしれませんが、スタンスとしてはあくまで前向きに行きたいと思います。